迷走かあちゃんの日記

2012年に33歳で男女の双子を出産。育てる毎日に追われ迷走中。育児の事、夫の事、仕事の事、世の中の事、お金の事、自分の事etc…尽きる事のない独り言を綴っている日記です。

おじいちゃんと私

こんばんは。
今夜はおじいちゃんを偲んで、今の育児の教訓になっていると思うことを綴ります。

「6/27」 

書類に日付を書いた瞬間に(あ…)と思い出しました。
おじいちゃんが亡くなって今日で16年。

私がまだ小さい頃は我が家は大勢で暮らしていました。
両親・父の両親・父の祖母・父の姪と甥・私達3兄弟・犬2匹。合計10人+2匹。凄い数です。(笑)

昔からその中でひときわ寡黙なのがおじいちゃんでした。
真面目で勉強が好きで几帳面で、
私と共通点がなさそうなのですがなぜか気が合いました。

私は、心静かに過ごしたいけど一人は嫌な時、よくおじいちゃんの部屋へ遊びに行っていました。
今思えばなんて恵まれていたんでしょう。
落ち着くひとときでした。

やがて思春期を迎えて多感になっていた頃に立て続けにおばあちゃんと大おばあちゃんが亡くなり母が出て行き両親が離婚しました。

おじいちゃんと父は実の親子だけどとても仲が悪い。。。

やがて私は耐えきれず家を出て母の元へ行きました。高校一年の5月でした。

それから少し経ってからおじいちゃんもアパートを借りて父から離れました。

母子家庭になった母と私のことをずっと気遣ってくれていて、定期代と小遣いとして毎月2万円くれました。母を困らせずになんとかその2万でやりくりしたくて片道1時間15分、学校まで自転車で飛ばしていました。

おじいちゃんが体調を崩し始めた頃、私は部活で膝の靭帯を切ってしまい、それも運悪く一年間程誤診を続けてしまい、とっくに切れて消滅している靭帯をまだあるものだと信じて手術せずにリハビリを続けた末に周りの勧めで行った別の病院でようやく手術。退院した頃にはもう、高校三年の最後の試合が迫った時期でした。

自分の怪我と向き合うのに必死で、治ったと思えば進路に悩むのに必死で、決めきれずに卒業してしまい宙ぶらりん。なんとか頑張れるアルバイトをかけもちして自分の生活費を自分で稼ぐのに今度は必死…。
おじいちゃんの長女である順子おばさんに近況を教えてもらうばかりで、顔を見に行くことさえできなかったのか…しなかったのか…本当に覚えていません…。
そうこうしているうちに
「なんだかもう気力がないのかボケてしまったのか、私の事もわかっているんだかなんだか…」と順子おばさんが言っていた記憶がある。
それを聞いた時に「しまった…!」と思った記憶も。

気になりながらも余裕がなくてなんにも出来なかった。
すれば良かったのに、出来なかった。
なんでだろうと今考えても仕方ない。
あの頃の私はしなかった。出来なかった。

お金を貯めたいと思い、地元から少し離れて住み込みのリゾートバイトを始めた頃に訃報が届いた。

葬儀に参列する為に飛んで帰った。



通夜の夜、会ったことのない高齢の女性に声をかけられた。

「あなたが〇〇ちゃんなのね。。」

「私はおじいちゃんが最後に暮らしたアパートの大家です。」

私は「はじめまして。孫の〇〇です。祖父がお世話になりました。」と頭を下げた。




「おじいちゃんね、あなたの事本当に大好きだったのよ。幸せになってほしいって話してた。」

私はおじいちゃんの人生の最期の数年、一度も会えなかった。
もしかしたら最期は私に見られたくない姿だったのかもしれないけど。

でも、

子供の頃よりも辛いことを乗り越えた後にもう少しゆっくり話がしたかった…。
それに、
今でも、家庭を持った姿や、母親になった姿も見せたかったなと思います。

静かだったおじいちゃんが私に遺してくれたものは思い出だけじゃなくて
これからの育児に役立ちそうなことが色々とありました。
時間が経ってから…とか、
失ってから…とか、
あとからジワジワと感じる深いものです。

今うちの子たちは小学1年生なので新しい発見の毎日だし沢山のお友達と互いに影響し合って、悪い事を覚えるなと言ってもおそらく無理でしょう。
そもそも今の時点でそれが「悪い事」だと知らないからやることもあります。
悪いこととは頭でわかっているけどやってみたい事だってあるでしょう。

そんな子供心や子どもの立場を察する事は出来ても、ついつい口を出し過ぎてしまうし余計な事も言ってしまいます。。。

注意してやらないと人様に迷惑かけてしまうし、人様にケガさせたくないし、という心配を、どうしたら、自分に自信を持って、なおかつ人様にちゃんと思いやりが持てるように導いてあげられるのかなと常に考えさせられます。



「かわいい子には旅をさせろ」



考えが浅くて、学もなく、失敗が多い私に、そういえば親も祖父母も、なんにも口うるさい事を言ってなかった。
自分のやりたいようにやって、言いたい事を言ってきた。
だから、
何かあっても自分で責任を取るのが当たり前になった。。
そうやって、
私なりに自分の力で前へ進んで人格が出来た。
沢山泣いて、人に嫌われ、自分の事が嫌になっても、親も祖父母も変わらず愛してくれていた。。





悪いイタズラを見逃してくれた時も、いずれ私が一人で心を痛めて改心すると信じて、黙って見逃した。気付かなかったんじゃなくて。

生意気な事を言った時も、少し戸惑ったような悲しいような顔で無言…。決して私が傷つくような事を言い返された事はなかった。もしかしたら内心ものすごく不愉快だったのに。

たとえ私が喜ぶとしても、直接お小遣いくれたり物をくれたりということはしなかった。
今にして思えば、教育上良かったし、母を尊重していたのだと思う。

目立たないところで私の為に尽くしてくれた事があったということが、別れて何年も経った今でも私の心に残っている。一家離散騒動中、私のお雛様を預かり、ひな祭りには飾り、人形の手入れもしてくれたり。



そういう全てが
その時の私には当たり前のように過ぎていった。

でも



「当たり前じゃないのかもしれない。すごく幸せだった…」



って、
後から思い知ったから今色んな事が考えられる人生を送っていられるんだと思う。



素敵な種を沢山育ててくれたおじいちゃんです。



まっすぐ元気な子供に、
最初から難しいことや深い事など伝わらないけど今日今この時も親子にとって大切なんだと、
今も天から教えてくれるおじいちゃんです。


ありがとう。
うまくいかない日もあるけど
頑張る\(^o^)/

〜長い文最後までお読み下さりありがとうございました〜