迷走かあちゃんの日記

2012年に33歳で男女の双子を出産。育てる毎日に追われ迷走中。育児の事、夫の事、仕事の事、世の中の事、お金の事、自分の事etc…尽きる事のない独り言を綴っている日記です。

会えなかったおばあちゃんへ…

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

日にちが変わって敬老の日ですね。

さっきまでうちの子供たちは、父方の祖父母が来てくれて、めいっぱい遊んでもらいました。
敬老の日だからと、肩や腰を愛情込めて叩いていました。

地元が札幌の私。
父は他界して、70才の母は一人で暮らしています。

パートナーの両親に恵まれて、
幸せな関係が(今は)築けていますが、
いつも心の何処かに母を想い淋しい気持ちや、母から離れて暮らす決断をして淋しい思いをさせて申し訳ない気持ちを抱えています。

その母は、
5才の時に実母を病気で亡くし、父親の再婚相手にいじめられて育ったそうです。
負けん気が強く忍耐力があるのは元々なのか環境と闘って培ったものなのか、思春期の母はお金も自由もなく毎日こきつかわれ罵倒されてもグレなかったようです。
昔からたまにその話になるたびにすごいなと思っていました。
私は短気で自由奔放なので耐えられない、いや、耐えないだろうなー…って。

「こんな家早く出てやる…」と本気で思っていた母は、やがて父と出逢い結婚して私達兄弟を産んでくれました。
父は一見怖くて子供の頃は話なんてほとんどできませんでした。不器用な人間で、愛情深いことが相手に伝わらなかったり受け入れてもらえないことが多い、損な性格でした。
真面目に努力して家族を養い、信じた友には力を貸して時には騙されていたけど素敵な父親でした。
でも、
母との関係は良好を保てず愛情ゆえの束縛や思い込み、押さえられない八つ当たりや酒に酔った際の暴力などで離婚しました。

限界を越えても我慢しそうな母を知っていたので、夫婦関係の悪化をずっと兄と一緒に注意深く見ながら生活していたけど、ある日母は心臓発作を起こし入院しました。
(おそらく過労やストレスによる)狭心症でした。
一生心臓の病とつき合うことになりました。

退院してきた時には父は母を気遣うとは真逆で、少しの階段の登り降りで息を切らす姿を見て「当てつけのつもりか」とからんでいました。

日に日に夕飯を作る母の背中から絶望感のようなものが漂って、精神的に崩壊し始めていると察知したのは無表情で涙を流しながら夕飯の支度をするようになった時でした。

一家離散はとても悲しいことです。

しかし、その悲しい選択を早くしないともっと悲しい取り返しのつかないことが起こる気がしてなりませんでした。当時私は中学生、兄は大学生でした。

子供から母親に提案しました。

「もう大丈夫よ。限界なんじゃない…?」
と、離婚を勧めたのです。

母は泣いてばかりでしたが出ていく直前まではしっかり家のことをしてくれました。
そしてお兄さん夫婦のところに最初お世話になった後にきちんと自立して、
高校生になった私は母と二人で仲良く暮らしました。

控えめで目立たないタイプの母。
おっちょこちょいで実はひょうきんな母。
いざという時落ち着いて行動できる強い母。

大好きな母がこの世にいてくれて良かったと心から思う度に、母の母に感謝しました。

母がつらそうな時には、5才以来、安心して甘えられるお母さんがもうこの世にいない淋しさを思い、勝手に一人で泣きながら、母の母ももし今見ていたらつらいだろうと思いました。

母を最期まで本当は愛していた父が、
母に対して自分をコントロール出来なくなり、
母が危険にさらされている頃には、
自分もできうる限り母を支えながら
「どうか守って…!」と母の母に祈りました。

会ってみたかったよ。
おばあちゃん。

おばあちゃんの可愛い娘は、
辛いことが何度もあっても心が綺麗で、
たくましく生きて、
そして、
私の可愛い双子の、おばあちゃんになりました。

きっと、
仲良し母娘が子連れで楽しそうに買い物している風景など目にしては寂しくてたまらない。
そんな思い、させて、
親不孝なの。
ごねんね。
私もお母さんに育児助けてもらいたかった。

でも、
母が高校時代に先生から言われた大事な言葉。

「我、何をなすべきか」

迷走は一生するでしょうけど、
貴方の娘も
孫も
今何をなすべきか考えて
一生懸命毎日を生きるから。

ずーっと
見ててね。

いつもありがとうね。